物語の定義について考える

このブログにおける物語の定義とは

物語と一言で表現していますが、このブログにおいては例えば現実に存在した人の人生も一つの物語として捉えていますし、文章や映像だけではなく、音楽や料理のようなものの中にも物語性を見出せるものと考えています。

私の中で、漠然と物語についてかなり大雑把に捉えて考えていましたが、一旦、このブログにおける物語というものを明確に定義しておきたいと思います。

物語とは何かを物語るすべてのもの

このブログにおいては、物語は「何かを物語っているものすべて」対象としています。例えば、1枚の写真がある場合、その写真は当然何らか「表現したいこと(≒物語りたいこと)」があって撮られたはずです。携帯をポケットに入れていて誤作動でカメラが動いたとかでなければ。

絵についても同様に、何かを訴えかけています。これもこのブログにおける物語の定義に入ります。書いたことはないですし、今後も今のところ書く予定はないですが、記事として絵画の解説のようなものもブログの中では物語として定義されます。

時折、ゲームの話についても物語のカテゴリーで書いていますが、ゲームも特にストーリー性のあるゲームは当然映画や小説と同じように物語として扱うことができます。このブログの物語の定義はさらに広義のものまで認められますので、例えば昔の単純なインベーダーゲームのようなゲームであっても、ゲーム製作者がゲームを通して何らか物語りたいことを含めて制作しているのであれば、それはやはり物語と考えていいこととします。

人の一生についても一つの物語

一方で、特に何か物語りたいわけではなくただ生きて死ぬという人の一生についても一つの物語であると考えます。これは、伝記という形で著名な人の一生が物語になっているケースがあり、それは紛れもなく一つの物語です。

そういった著名な人でなくても、どんな人の一生であれ、人が生きて死んでいく中で自らの生きる意味、アイデンティティ、生きがいを求め続けるものであり、どんな人でも人に認められたい、評価されたいという思いは人によって大小あるものの当然に心に持っているものだと思います。

そういう思いは、必ず人に表現しなければ気付かれることはありません。人が自分の信念に従ってただひたすらに生きるというその姿そのものがその人の行き方というのを物語っている存在であると思います。

あらゆる物を物語と捉え、あらゆる角度から考える

何かを物語るあらゆるものを物語と捉え、あらゆる角度から考えることで、自分の中にある物語を形にするためにはどうすればいいのかを考えるというのが、このブログのコンセプトになります。

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