わからないことがわかるようになる快感とわからなすぎる嫌悪感の境目
物語、ゲーム、勉強どんな経験でもそうですが、わからないことがわかるようになるというのは面白いです。急に目の前が開けたような気持ちになった時はすごくワクワクします。
一方で、わからなすぎて頭の中が混乱したり、眠くなったりすることもあります。この境目はいったいどこにあるんでしょうか。ゲームは特にこの問題について非常に真剣に考えていると思います。勉強は「わからないのは頭が悪いせい」という方向に行きがちで、勉強する側が努力することが当たり前になっているため、わからなすぎて困っている人は放置されてしまいますが、ゲームはプレイヤーが投げ出してしまったらゲーム制作者側がゲームが売れず困ってしまうため、できるだけわからないことをわかるように制作者側が努力しています。
物語はその間で、わからないことは物語を読んでいけば自然とわかるように構成されており、極端な話文章が読めさえすれば面白い物語、つまらない物語にかかわらず読み進めることができます。
わからないことがわかる。できないことができる。わからなくて興味を失う。できなくて興味を失う。それは「手が届く範囲かどうか」というところが境目になっています。
手が届く範囲とは。頭がいい悪いは分解する能力がポイントになる
ファミコン時代のゲームにはほとんどありませんでしたが、今のゲームには大抵チュートリアルというものがあります。ファミコン時代でも、最初の頃はボタンを押していればなんとなくやり方がわかるような単純なものばかりでしたが、だんだん複雑になるにつれ、説明書が必須で、説明書をちゃんと読まずにゲームを始めると何をすればいいのかよくわからなくなっていきました。
しかし、中古ファミコン市場が充実してきて、中古で購入することが常態化すると説明書なしで売られているというケースも多々あり、今のようにインターネットもない時代には何をどうすればいいのかわからなくなってしまっていました。
チュートリアルは、そのような状況に対応するため生まれたゲーム内の説明書がチュートリアルです。操作方法をゲームの中で説明し、プレイした結果をプレイヤーに理解してもらう手法です。
これは、ゲームをプレイするという大きな目的を細分化し、操作方法を理解できるステップで順番に教えていくという方法です。頭がいい人というのは、この目的の細分化を自分で行うことができます。また、チュートリアルのような説明から様々なことを理解します。一を聞いて十を知るというやつです。
物語では、様々なピースをわざとばらばらに配置し、最後につながりのキーとなるネタを明かして一つにつなげるという手法が取られたりします。勉強では、わからない時は、自分で調べるしかありません。勉強ができる人とできない人の差は、理解する為に段階があるのを、その段階を理解せずに次の段階に進もうとしていたり、いきなり難しい段階を理解しないといけないと思い込んで興味を失ったりということが問題になります。