ポイントは人のため。善と悪の表現について。

物語を作るうえでのキャラクターの立ち位置

写真や絵には全くキャラクターが登場しない風景画のようなものがありますが、文章における物語において風景画のようなキャラクターが出てこない物語は無いと思います。もちろん、人間という意味での人がでてこない物語というのはあると思いますが、それが動物なり虫なり異星人なり神なり、何らかの人格を伴うキャラクターが存在しなければ文章としての物語は成り立ちません。

そしてキャラクターには一応の善玉と悪玉のような立ち位置があります。物語の中には、デスノートのような悪玉が主役の物語があったりしますが、大抵は善玉が主役で、主役の味方は善玉というのが基本です。

善と悪の基準

善悪というのは難しい基準で、例えば戦争なんかは善と善、悪と悪の戦いであることも多々あります。何を持って善とするか悪とするかは見ている人の立場に依存しています。

我々が物語を観たり読んだりする上でこのキャラクターは善だ、悪だと何を持って判断しているかというと、他人に対する態度だと思います。

例えば、自分と他人(仲間であったり同国の人であったり)が天秤にかけられたとき自分が損をしてでも他人を得させる人を善、他人を損させてでも自分が得をしようとする人を悪と判断しています。

また、同じキャラクターが一貫して善、一貫して悪でなければならないわけではなく、普段は自分優先なキャラクターが土壇場で仲間を助けるといった展開もよくありますし、善玉だと思っていたキャラクターが実は悪玉だったという展開もよくあります。

また、キャラクターの設定としては悪玉だけれど、何らかの制約があり渋々善玉の味方をしているキャラクターや、逆に善玉だけれど制約により悪玉の見方をしているキャラクターという設定もあります。

どちらにせよ、このキャラクターは善玉だ、このキャラクターは悪玉だと受け手にわからせるためには、何らかの利他的な行動を取っている描写や、利己的な行動を取っている描写が必要になります。

善玉は応援したくなるような描写が上手い描写でしょうし、悪玉は殺意を覚えるぐらいの描写が上手い描写になると思います。

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