八甲田山雪中行軍遭難事件の行軍ルートを追ってみた。

八甲田山雪中行軍遭難事件という史上まれにみる遭難事件

八甲田山雪中行軍遭難事件については、以前記事を書いたのですが、今回はGoogleマップを使って、より詳細なルートについてみていきたいと思います。

まずは、前回の記事のおさらいとして、青森から出発して遭難した第五歩兵連隊の行軍ルートと弘前から出発して無事生還した第三十一歩兵連隊の行軍ルートを大雑把に示したマップを掲載します。


前回の記事でも書いたとおり、赤のルートが遭難した第五歩兵連隊(1泊2日の予定)目的地は、Bのポイントの少し先にあるポイントまでだったようです。そこで1泊してAに戻るという、片道20km程度のなんてことは無い道のりに見えます。

一方で弘前(Jのポイント)を出発した第三十一歩兵連隊は、当初10泊11日の予定であったところを11泊12日でC⇒D⇒E・・・と南側からぐるっと一周してJに戻るルートです。

ちなみに調べたところによると、ちょうど第五歩兵連隊が出発・遭難した1902年1月23日の頃は、第三十一歩兵連隊はD⇒Eの辺りを行軍していたようです。赤のルートを通るのは1月28日で、第五歩兵連隊がほぼ全滅しており、最初に発見された後藤伍長が救出された次の日です。

遭難した時のルート

次に、A⇒Bのルートを詳細にみていきたいと思います。

第五歩兵連隊が出発して、後藤伍長が発見されるまでのルートがこちら。


まず、Aから出発してBの田茂野木という集落で、運命の分かれ道。集落の住民は行軍の中止を進言します。どうしても行くのなら案内役を買って出るとまで言います。ところが、ここで案内役も雇わず進軍を決定してしまいます。

その日の夜、目的地(ちょっとルートから離れたポイントの所)まであと少しというところで道がわからなくなりCの地点で露営します。そこからは遭難まっしぐらで、引き返そうとして次の日一日歩き回ってDの地点で露営。普通であれば徒歩10分の距離だそうです。三日目はEの地点で露営。一日歩き回っているはずなのに全く進んでおらず、どれだけ酷い吹雪になっているのか想像もできません。おそらくさんざん山の中をあっちに行ったりこっちに行ったりしながら、かろうじて前進していたのだと思います。

そして出発から5日目の1月27日、後藤伍長がFの地点で救援隊に発見されます。

こうして地図で見るとほんとにわずかな距離での出来事だったのだと驚きます。

  

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