無謀と挑戦の境界。栗城史多さんの記事を見て考えさせられたこと。

栗城史多さんの死去

今日、栗城史多さんという方がエベレストで亡くなったという記事を読んで、この方の評価が真っ二つに割れていたため、興味が湧いてどんな方なのか調べてみました。

登山家が山で遭難して亡くなるというのはよくある話で、たいていは偉大な挑戦に敬意を表する内容の記事であることが多いと思います。



しかしこの方の場合は、登山を舐めすぎているという人もいれば、人生何事も挑戦だと言っている人もいて否定派と肯定派が入り乱れている感じでした。ただし否定派のほうが多いように感じました。

詳細については、この方についてまとめているブログが結構あるみたいなので、そちらに譲るとして、簡単にまとめると、到底目標を達成できる実力もないのに、大それた目標を掲げ失敗し続けていた人だったようです。

例えて言うなら、近所でちょっと足が速いサブスリーぐらいの人が「オリンピックで金メダル取る!」といって陸上の選考会みたいなものに毎回出場して敗退しているみたいな感じでしょうか。で、毎回「今回はひざが故障して」とか「大会直前に風邪ひいて」とか言っているみたいな。

ただ、その発言が最強市民ランナーの川内優輝選手のようなノリで騒がれ、(自分で売り込んだのかもしれませんが)スポンサーが付いてしまい後に引けなくなってしまったという感じなのかなと思いました。

無謀な挑戦でも挑戦はいいことなのか

個人的に到底達成できない目標に向かって何らかの活動をしている分には誰も何も言わないと思います。周りの人は無駄な時間を費やしているとしか思わないでしょうし、おせっかいな人であれば止めろと助言するかもしれませんが、誰にも迷惑をかけていないなら好きにしていいと思います。

もちろん、挑戦するからには成功したほうがいいに決まっていますし、成功する可能性を少しでも高める努力をすることはいいことだと思います。しかし、無謀と挑戦の境界は曖昧で、当初無謀だと思っていたことが、いつの間にか挑戦に値するようになっていたり、逆もまたあると思います。

今回の問題の本質

今回物議をかもしていたのは、スポンサーのような他人のお金が絡んでしまった点だったのではないでしょうか。成功のあてがあるから投資するわけで、実は成功の見込みは全くありませんというのであれば騙していたということになります。

もはやご本人が亡くなってしまった以上、どこまで本気だったのか心中はわかりませんが、この話で肯定派と否定派が真っ二つに割れた理由は、挑戦が無謀かどうかではなく、騙すつもりだった(本当は自分自身も達成する気が無いのに達成すると言い張っていた)のかどうかという点だったのではないかと思います。

なんにせよ、謹んでご冥福をお祈りいたします。

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