本当にやりたいこととやらなければならないことの間にあるもの

本当にやりたいことは自分でもわからないことがある

先日エベレストで亡くなった栗城史多さんに触れた記事を書きましたが、私にとっては挑戦というのは肯定すべきものという概念を覆されるインパクトのある事件でしたので、引き続き色々と調べてしまいました。

栗城さんは登山家ではないという話をもう少し詳しく調べてみましたが、とにかく登山のセオリーを無視して無謀な挑戦を繰り返し、当然失敗するという感じでした。

 

「誰もやったことが無いことをやるには人の真似をしていてはできない」ということなのかもしれませんが、私はこの主張は間違いだと思います。誰もやったことが無いことをやるには、まずは上手い人の真似をする必要があります。守破離の守がまずは必要なのです。


守の部分は先人が長い時間をかけて失敗を繰り返しながら抽出したエッセンスの部分です。偉大なことをするためには、我々はまず先人達の知識の集大成という巨人の肩に乗る必要があります。そこからさらに高み登れるかは本人の実力次第ですが、巨人の肩に乗らず地面から先人達を超えるには人生は短すぎます。

栗城さんにも同じような批判がありましたが、私はこの方の人物像を調べていくうちに、この人は別に登山じゃなくてもよかったんじゃないかと思うようになりました。

早すぎたYoutuber

私の中で出た結論としては、栗城さんは早すぎたYoutuberです。今でこそYoutubeで人が喜んで見るようなチャレンジをして再生回数を稼ぎ、その収入で暮らしている人がいますが、栗城さんが本当にやりたかったのはこういうことだったんじゃないかと思います。

それが、たまたま登山をネタに持ち上げられる機会があり、登山家というレッテルが貼られてしまった為、登山ネタで勝負せざるを得なくなってしまった。まして、その当時はYoutuberなんて概念はなく、出資者を募って大規模にやらざるを得なかったということなのではないかと思いました。

そうやって考えると、一人のショーマンとしては根性がある人だったと思います。指が無くなっても8000m近い高地に何度も赴くなんて、普通の感覚だと正気では無い気がします。指が無くなったのも、当然本人の登山技術の拙さが原因でしょうが、そうなるまであきらめずに頑張った根性はあるのではないでしょうか。

私は富士山に登ったことがありますが、あの高さでもめちゃくちゃきつかったのに、さらに倍以上の高度に碌な知識も技術もなく何度も突っ込んでしまっている時点で、愚かな反面、非凡さを感じます。

あと数年あとに生まれていたら、登山ネタで時の人にならなかったら、人気Youtuberとして有名になっていたかもしれません。死の直前はエベレストに登頂した夢でも見ながら幸せにあの世に旅立っていてくれたらと思います。

 

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