いい挑戦、悪い挑戦。挑戦とは何か

挑戦の良し悪しは他人にはわからない

昨日の記事を書いてからも、調べれば調べるほど栗城史多さんのどう考えても無謀な挑戦は、やるべきではなかった気がしています。



一方で、友人が紹介していたTEDの動画をちょっと前に見たのを思い出しました。植松努さんという方です。一言で言うと「どうせ無理」という言葉を無くしたいという話です。

この動画を見ていると、他人の言っていることなんか気にせず自分の信じる道を進み、挑戦することって大事だと思います。

この違いは何なのだろうと考えてしまいます。植松さんは挑戦に成功しており、栗城さんは失敗して亡くなってしまいました。しかし、それが理由で植松さんはすばらしく栗城さんはすばらしくないというのは間違っている気がします。

現に植松さんも何度となく失敗した先に今があります。我々のような赤の他人が植松さんの失敗の途上にある中でこの動画のような話を聞いたとしても見向きもしないと思います。しかし、植松さんはすばらしい結果を残しています。つまり成功する見込みのある挑戦をしていました。

このように結果が出るまでは、他人からはそれが無謀な挑戦なのか、価値ある挑戦なのかは判断できません。そして、失敗したからといって無謀な挑戦だったと言い切ることもできません。

「あの失敗した挑戦は無謀な挑戦だったんだ」「どうしてそう思うの?」「だって失敗しているじゃないか」失敗した挑戦を無謀な挑戦といい、なんで無謀だと思ったのか根拠を問うと失敗したからと原因と結果が堂々巡りになる状況をトートロジーといいます。これは根拠になりません。

植松さんの動画から垣間見えるヒント

植松さんの動画では、「できないことができるようになること」が大事だといっています。栗城さんはできないことができるようになる前にさらに難しいことに挑戦しようとしていました。できるようになる努力をしているわけでもなさそうでした。資金を集める事で精一杯でそんな努力をする時間も無かったのかもしれません。

できないことができるようになることを挑戦とするなら、できないことをできないままにしてより難しいことに挑戦しようとすることは、できないことをできるようにする努力の放棄になってしまうのではないでしょうか。

そうやって考えると、栗城さんは「挑戦する姿を見せる」ことを目的とした(それによって人に勇気を与える)パフォーマンスを行っていたのであって、エベレストに登頂できるできないは二の次だったのかもしれません。もしそうであれば、できるだけ派手な挑戦のほうが目立ちますし、素人目にどれぐらいの成功率かがわかりにくい挑戦、それも命がかかった挑戦のほうが盛り上がります。

挑戦することと挑戦する姿を見せるパフォーマンスをすることはぱっと見似ているけど、全然違うことなのだと思い当たりました。

ちなみに、栗城さんについて応援する人が殺したようなものだというコメントをよく目にしますが、栗城さんは自らの意思で死地に赴いたのであって他人は関係ないと思います。

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