鈍感が得か敏感が得か。個性の長短について。

敏感と鈍感という言葉のイメージ

流行に敏感な人という言葉はいいイメージがあります。逆に鈍感な人という言葉にはなんとなく悪いイメージがあります。最近、鈍感力という本が話題になりましたが、この言葉が印象に残るのは、鈍感というマイナスイメージの言葉に力という能力を表す言葉をつけて、鈍感である能力という今までにない視点のタイトルだったからだと思います。

残念ながら、鈍感力は読んでないので、もしかしたら今から書く内容が被っているかもしれませんがご容赦いただければと思います。

会社の同僚と一緒にいて感じること

私はかなり鈍感なタイプで、あまり周りのことが気になりません。子供の頃はそのせいで相手を怒らせたり、不快な思いをさせてしまったような記憶がありますが、さすがに大人になって相手をないがしろにするほど鈍感だとまずいことは学習し、今では比較的良好な人間関係が築ける程度には気を使うようになりました。

一方で、よく一緒に行動している会社の同僚はよく気がつきます。私と正反対で敏感なタイプですが、それが原因で不快な思いをしたり腹を立てたりすることも多いようです。

例えば、エレベーターやバス停、電車のホームなどで順番待ちをしている時、並ぶ場所がきちんと整列できるようになっておらず、ややごちゃごちゃ待っているときがあります。そんな時に、自分の脇から人がすっと先に入ってしまうことがあります。

会社の同僚はそのことに腹を立てますが、私はあまり腹が立ちません。そもそも脇から人が入ったことに気付いてすらいないこともあります。仮に気付いたとしても、出口が手前にあるのだから、より奥に入ってしまうより手前で留まっていたほうが出やすい時もあり、別にいいかと思っていたりします。

他にも同僚は、やたらと独り言で何かつぶやいている人が気になったり、店員や相手のメールの対応が横柄であることが気になったり、敏感であるがゆえに多くのことに気付き、ストレスを溜める原因になっています。

敏感であることと鈍感であることに優劣はない

私の結論としては、敏感であってよかったことと、鈍感であってよかったことは同じぐらいの比率で起こり、トータルで見るとどっちのほうがよりよいということはないと思います。

この考えは人の個性という話に拡張でき、やれあの人は気が利かない、あの人は神経質だ、怒りっぽい、無感動だと、いろいろと欠点を上げることはできますが、結局それはその人の個性のマイナス面を表現しているだけであり、例えば無感動な人に感情豊かになれといって、その人が必死に無感動という欠点を克服したとしても、無感動であることのプラス面も一緒に捨てることになり、克服する労力分が無駄なのではないかと思います。

自分の特徴をよく理解し、あまり人の批判に囚われないほうがいい

個性だからといって、人に迷惑をかけてはいけないと思いますが、自分の個性が相手にとって都合が悪いからといって、相手の批判を真に受けて自分を一生懸命変えても、また別の欠点が生まれるだけです。

その相手にとってそっちのほうが都合がよければ褒めてくれるでしょうが、別の相手から批判されるかもしれません。要は、犯罪や相手に危害を加えるような性格でなければ、自分の個性をよく把握して、その欠点も含めて上手く付き合っていくことが幸せな人生につながると思います。

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